2011年2月4日金曜日

黒田官兵衛「播磨灘物語」

「播磨灘物語」は戦国武将黒田官兵衛を主人公とした司馬遼太郎の小説である。



黒田官兵衛は知る人ぞ知る豊臣秀吉の名軍師であるが、歴史好き以外の人には意外と知られていない武将かもしれない。

本能寺の変に際して秀吉は明智光秀を討つべく中国地方から機敏に軍を引き返したが、有名な
この「中国大返し」も黒田官兵衛の入れ知恵によるものだし、秀吉の本能寺の変以降の目覚しい天下統一事業は黒田官兵衛というブレインがいてはじめて可能となったものである。

また、あまり知られていないが、大坂城の縄張り(設計)も実質的に黒田官兵衛が行ったとされる。

天下が定まっての後年、秀吉は退屈しのぎの雑談として周囲の者に「自分がもしいなくなったら誰が天下を取るか当ててみよ。」と聞いた。その質問に対し、徳川家康や前田利家などの大大名の名をあげる者はいても、誰ひとりとして黒田官兵衛の名をあげる者はいなかったという。

秀吉は「全部外れだ。それは黒田官兵衛よ。おまえらは彼の本当のすごさを知らない。彼が本気になれば天下を取ることなどいともたやすいことなのだ。」と答え、その場にいた者はその意外な秀吉の答えに驚いたという。

黒田官兵衛とともに秘密裏に謀略の限りを尽くして天下を奪取した秀吉にしかわからない黒田官兵衛の凄みというものがあったのだろう。

秀吉は天下統一事業の過程で黒田官兵衛の智略を散々に利用したが、いったん政権が安定してからは彼の智略をおそれむしろ彼を敬遠した。黒田官兵衛のすごいところはそのあたりの機微をよくわきまえていたことで、秀吉の処遇に一切不満の様子を見せることなくむしろ自分の存在を目立たぬようにして秀吉に二心のないことを示した。

九州中津で隠居となり完全に世間の第一線から退いたかにみえた黒田官兵衛だったが、彼は晩年になり長年心の奥底に秘めていた天下取りの野心をむき出しにし、実際にその行動をおこした。

彼の天下取りの構想は雄大であった。

関ヶ原で石田三成と徳川家康が戦っている間に、その混乱に乗じて九州を平定して自己の勢力を拡大し、関ヶ原の戦いで両軍が消耗しきったその後に、そのどちらかの勝者と戦ってこれを討ち、漁夫の利をえて天下をかっさらおうとしたのだ。

彼の予想に反して関ヶ原の戦いはあっけなく半日でけりがついてしまったため、この天下取り構想は成功しなかった。しかし実際に、彼はただの隠居の身でありながら、秀吉も警戒したその智略を駆使して九州北部一円をあっという間に手品のように制圧してしまったというから驚きだ。

天下取りが実現不可能と悟るやいなや、彼はさっと身をひそめて再びただのご隠居となり、その後は一切爪を剥き出すことはなかった。

なお、官兵衛の息子黒田長政は関ヶ原の戦功により家康より大抜擢を受け、筑前福岡52万石を拝領し福岡黒田藩の藩祖となっている。

さらにいえば、現在の福岡といえば九州一の大都会だが、この福岡という地名は、官兵衛の出身地である備前国(現在の岡山県)福岡を記念して官兵衛の指示でつけられたという。

いつかNHKの大河ドラマで取り上げられるべきユニークな歴史上の人物だ。